2012年 01月 06日
福を呼ぶ最中 |
新年なので福を呼ぶお菓子を紹介します。
それは『福ふく最中』です。府中の青木屋さんで売っているモナカです。モナカなんですがとても小さくかわいらしいのです。大きさはそうですね、人形焼きくらいかな。
実は知人がモナカをネタにへんてこりんなブログをやっていて、彼がもう何ヶ月もそのブログを更新しないものだから、お年賀がわりに買ったモナカなんです。
さてどこが「福ふく」かというと、パッケージ(包装紙)を開けて初めて分かるのです。
ジャーンそうです、大黒様です。
いわゆる七福神の一人で商売繁盛の神様です。
インドや中国の神様などが混じっているので、七福神は中国渡来の風習のようにも思えますが、中国では八が幸福数、七が幸福数の日本とは違っているので、七福神は日本由来なんですよね。幸福にまつわる神様をひとつのパッケージにしちゃったわけです。
それに大黒天は元はインドの神様ですが、大黒と大国とが同じ音なので、大国主命の信仰と習合してしまったユニークな神様です。大国主が因幡の白ウサギを助ける話の時に、大きな袋を担いでいますよね。ですから大黒様も大きな袋を担いでいます。写真は大国魂神社のお札から。
さて、このモナカをくるっと裏返すと(どっちが表というのはありませんが)恵比寿さんです。そうなんです、大黒様と恵比寿様で福が2倍で福ふく最中なんです。
恵比寿様は鯛を抱えているとうり漁業の神様で、大黒様が大地の豊穣を象徴しているので、それと対をなして海産の豊穣を意味していると考えられています。
恵比寿様にあたるインドや中国の神様はいないので、古くから北方の民の蝦夷(えみし)の神様ではないかという考えを持つ人も多いのです。一応繋がりはないとされていますが、マツロワヌ民の象徴が庶民によって祀られているという判官贔屓的なロマンティズムにハマる人も多いのです。
※蝦夷が特定の民族をさすのではなく「辺境の民」の総称としてこの字を当てるという考えもあります。つまり恵比寿様は辺境から現れた神とも考えられています。辺境を海と考えると、似たような神様や神話の登場人物はけっこういますね。
大国と大黒、恵比寿と蝦夷、日本人は昔からよく似た言葉の本質をつなげよう、あるいは同一のモノとみなしてきました。言葉遊びといえばそうなんですが、それが信仰という実態を伴ったり、絵柄として成立したり文化として発展や継承をしてきたのですから、ダジャレとしては済ませられないことになったりしているのです。ああ面白い。
日本に一番多い社は稲荷社ですが、これもイナリ=稲なるの言葉合わせで五穀豊穣祈願が商売繁盛に結びついたものです。
ほらビルの上にもお稲荷さん。
ダジャレ語呂合わせといえば、ひょっとこも「火を吹く男」の吹くが福に通じるということで福男として存在してきているんですね。そう考えれば「火を吹いて消す」から秋葉神社系の天狗とも重ねて考えた人もいたと思います。天狗は鼻が突き出し、ひょっとこは口が突き出している。ほら、面から突き出す部位は違うけど、面から何かが突き出す、飛び出している事が異界人の面相のルールなのかもしれませんよ。ひょっとこと対で語られたり並べられる「お多福」もほっぺたが突き出ています。
そういうことを考えた上で七福神を見てみると、あれれ、福禄寿の頭以外は「突き出ているものがありません」神格化されたものには突き出ているものが見当たらない。それはそうです神様ですから。
では、突き出た物がある者たちはなにか?ひょっとこ、お多福、天狗、鬼も角が飛び出ています。ついでに権現様も。人でも神様でもない中間に存在する者たち。それは神と人を取り次ぐ存在。
祭や祝いの席に欠かせぬ者たちがなぜそこにいるかという理由は明白です。
そこで七福神を見直すと福禄寿は神様ではなく「中間に存在する者」ではないかという疑問が生まれます。中国の仙人という存在を「長生きした老人」と考えると、それは人であって神でも、取り次ぐ人でもない。しかし人よりも神に近い深山や高所に暮らすというイメージから考えると「取り次ぐ人」により近いと考えて当然です。では寿老人は?ということになりますが、寿老人と福禄寿が同一神ということも言われてますからね。描き分けのために神と取り次ぐものに分けられたということも考えられます。
まあ、いままで書いた事はイナモダの個人の妄想なので、皆様はそれぞれの書籍資料にあたられるかしてください。ちなみに七福神が描かれた杯の話はコチラです。
えーと話が大脱線しましたね「福ふく最中」の味は、小さめなサイズと相まって、甘さがもたれるでもなく、スッキリとした後口のモナカでした。食べた後にすぐに渋いお茶が欲しくならない甘さといえば分かっていただけるでしょうか。
そうだ今年は平田篤胤神社にお参りに行こう。
それは『福ふく最中』です。府中の青木屋さんで売っているモナカです。モナカなんですがとても小さくかわいらしいのです。大きさはそうですね、人形焼きくらいかな。
実は知人がモナカをネタにへんてこりんなブログをやっていて、彼がもう何ヶ月もそのブログを更新しないものだから、お年賀がわりに買ったモナカなんです。
さてどこが「福ふく」かというと、パッケージ(包装紙)を開けて初めて分かるのです。
ジャーンそうです、大黒様です。
いわゆる七福神の一人で商売繁盛の神様です。
インドや中国の神様などが混じっているので、七福神は中国渡来の風習のようにも思えますが、中国では八が幸福数、七が幸福数の日本とは違っているので、七福神は日本由来なんですよね。幸福にまつわる神様をひとつのパッケージにしちゃったわけです。
それに大黒天は元はインドの神様ですが、大黒と大国とが同じ音なので、大国主命の信仰と習合してしまったユニークな神様です。大国主が因幡の白ウサギを助ける話の時に、大きな袋を担いでいますよね。ですから大黒様も大きな袋を担いでいます。写真は大国魂神社のお札から。
さて、このモナカをくるっと裏返すと(どっちが表というのはありませんが)恵比寿さんです。そうなんです、大黒様と恵比寿様で福が2倍で福ふく最中なんです。
恵比寿様は鯛を抱えているとうり漁業の神様で、大黒様が大地の豊穣を象徴しているので、それと対をなして海産の豊穣を意味していると考えられています。
恵比寿様にあたるインドや中国の神様はいないので、古くから北方の民の蝦夷(えみし)の神様ではないかという考えを持つ人も多いのです。一応繋がりはないとされていますが、マツロワヌ民の象徴が庶民によって祀られているという判官贔屓的なロマンティズムにハマる人も多いのです。
※蝦夷が特定の民族をさすのではなく「辺境の民」の総称としてこの字を当てるという考えもあります。つまり恵比寿様は辺境から現れた神とも考えられています。辺境を海と考えると、似たような神様や神話の登場人物はけっこういますね。
大国と大黒、恵比寿と蝦夷、日本人は昔からよく似た言葉の本質をつなげよう、あるいは同一のモノとみなしてきました。言葉遊びといえばそうなんですが、それが信仰という実態を伴ったり、絵柄として成立したり文化として発展や継承をしてきたのですから、ダジャレとしては済ませられないことになったりしているのです。ああ面白い。
日本に一番多い社は稲荷社ですが、これもイナリ=稲なるの言葉合わせで五穀豊穣祈願が商売繁盛に結びついたものです。
ほらビルの上にもお稲荷さん。
ダジャレ語呂合わせといえば、ひょっとこも「火を吹く男」の吹くが福に通じるということで福男として存在してきているんですね。そう考えれば「火を吹いて消す」から秋葉神社系の天狗とも重ねて考えた人もいたと思います。天狗は鼻が突き出し、ひょっとこは口が突き出している。ほら、面から突き出す部位は違うけど、面から何かが突き出す、飛び出している事が異界人の面相のルールなのかもしれませんよ。ひょっとこと対で語られたり並べられる「お多福」もほっぺたが突き出ています。
そういうことを考えた上で七福神を見てみると、あれれ、福禄寿の頭以外は「突き出ているものがありません」神格化されたものには突き出ているものが見当たらない。それはそうです神様ですから。
では、突き出た物がある者たちはなにか?ひょっとこ、お多福、天狗、鬼も角が飛び出ています。ついでに権現様も。人でも神様でもない中間に存在する者たち。それは神と人を取り次ぐ存在。
祭や祝いの席に欠かせぬ者たちがなぜそこにいるかという理由は明白です。
そこで七福神を見直すと福禄寿は神様ではなく「中間に存在する者」ではないかという疑問が生まれます。中国の仙人という存在を「長生きした老人」と考えると、それは人であって神でも、取り次ぐ人でもない。しかし人よりも神に近い深山や高所に暮らすというイメージから考えると「取り次ぐ人」により近いと考えて当然です。では寿老人は?ということになりますが、寿老人と福禄寿が同一神ということも言われてますからね。描き分けのために神と取り次ぐものに分けられたということも考えられます。
まあ、いままで書いた事はイナモダの個人の妄想なので、皆様はそれぞれの書籍資料にあたられるかしてください。ちなみに七福神が描かれた杯の話はコチラです。
えーと話が大脱線しましたね「福ふく最中」の味は、小さめなサイズと相まって、甘さがもたれるでもなく、スッキリとした後口のモナカでした。食べた後にすぐに渋いお茶が欲しくならない甘さといえば分かっていただけるでしょうか。
そうだ今年は平田篤胤神社にお参りに行こう。
by inamoda_jjj
| 2012-01-06 04:25
| どこにも属さないよ